【鹿児島】薩摩を治めてきた島津家の歴史を学ぼう

ナレッジ

1. はじめにー鹿児島における島津家の重要性ー

鹿児島市における観光体験の中でも、歴史にまつわるものは代表的なものです。市街地には明治維新で活躍した偉人たちにゆかりの地があるほか、仙巌園のように地域の歴史に関する資料が充実した施設も整備されています。鹿児島の歴史を語る上で、中世から現代まで関わってくるのが、地域を長きにわたって治めてきた島津家です。

この記事では島津家の歴史や島津家にまつわる観光スポットについて以下の3つテーマについて解説します。
<テーマ1> 薩摩藩成立までの島津家の歴史
<テーマ2> 日本の近代化を支えた島津家
<テーマ3> 鹿児島市における島津家ゆかりの地

<テーマ1>薩摩藩成立までの島津家の歴史

島津家は鎌倉時代から江戸時代まで、700年もの間、鹿児島を中心として南九州を統治しました。ここでは、島津家の来歴からはじまり、九州全土に勢力を伸ばそうとしていた戦国時代の活躍などを中心に紹介します。

島津家の成り立ち

島津家の歴史は、鎌倉幕府から惟宗忠久(これむねのただひさ)が島津荘の管理を任命されたことにはじまります。島津荘とは当時日本最大の荘園(寺院や神社、 貴族によって開発された土地)で、その範囲は現在の鹿児島県と宮崎県にまで広がっていました。この荘園名にちなんで、忠久は島津の姓を名乗りました。
初代・忠久から2代・忠時の時代においては、主に島津家は鎌倉で生活を送っていましたが、3代・久経(ひさつね)の時代から鹿児島を拠点としました。元寇をきっかけとして、九州の防衛を担う役職に命じられたという経緯があります。
鎌倉幕府の力が衰退すると、5代・貞久(さだひさ)は当時起きた幕府を倒す戦い(元弘の乱)に参加し、九州の重要拠点を攻略するなどの活躍を見せました。しかし、それ以降は南北朝時代の動乱に巻き込まれたり、一族内での権力争いが起きるなど、島津氏の権力基盤は不安定な状態が続きました。

戦国時代の勢力拡大と関ヶ原の戦いにおける活躍

その後、戦国時代の混乱の中で、島津家は勢力を再び拡大しました。15代・貴久(たかひさ)は一族の内紛を鎮圧し、薩摩半島を統一しました。そして、かつての支配地を取り返そうと、隣国で力を持っていた蒲生(がもう)家を打ち破りました。
また、海外との交流が活発になったのも貴久の時代で、日本史の教科書にも登場する出来事も起きました。1543年にポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来しました。島主の種子島氏は島津氏の配下であったことから、貴久に鉄砲が献上されました。また、1549年にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。ザビエルは、貴久の許可を得て、鹿児島で日本におけるキリスト教布教の第一歩を踏み出しました。このように、鉄砲とキリスト教などに代表されるヨーロッパ文化に島津家はいち早く触れていて、その後の薩摩藩における海外交易を重視する姿勢へと繋がっていきました。

続く16代・義久(よしひさ)は豊後の大友宗麟(そうりん)、北九州を支配下に置いていた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)などの大名を打ち破り、九州統一が目前まで迫りました。しかしながら、当時本州で力を持っていた豊臣秀吉との戦いとな、大幅な兵力差があったこともあり、義久は降伏を決断しました。交渉の末、薩摩を中心とした領地を治めることを許されました。
その後、島津家の勇猛さを全国的に知らしめたのが、1600年の関ヶ原の戦いです。島津家は石田三成が率いる西軍につきますが、東軍優勢の戦いの中で退路がなくなりました。孤立した島津軍は敵陣を正面突破する形での退却を決断しました。最後尾の兵が死ぬまで敵の足止めに徹するという捨て身の戦法で、多数の犠牲を払いながらも戦場から離脱しました。
戦いに破れたものの、島津家には兵力も財力も潤沢だったこともあり、徳川家康は島津との戦を避ける方が良いと判断し、島津家の存続が許されました。このような経緯で薩摩藩が成立しました。

<テーマ2> 日本の近代化を支えた島津家

ここでは江戸時代から現在にいたるまでの島津家の歴史を紹介します。島津家一族は、関ヶ原の戦いの後、薩摩藩の藩主となりました。歴代藩主たちは、海外との交易から世界情勢にも通じていたことから、近代化にいち早く着手することができました。それが明治維新における薩摩藩のめざましい活躍へと繋がりました。

藩政期の薩摩

関ヶ原の戦いの後、島津家は18代・家久が当主となり、加賀前田藩(102万石)、越後高田藩松平(75万石)に次ぐ72万石の領地を所有する薩摩藩が誕生しました。1609年には琉球王国を攻めて、支配下におきました。琉球では鎖国時代においても、諸外国との交易が行われていたため、薩摩藩には海外の文物が数多く流入していました。具体的には砂糖、薬、絹織物などの物資を輸入したほか、中国やヨーロッパの書籍を手に入れることで、海外事情に触れることができました。また、昆布や上布(麻の織物)などを輸出することで外貨を稼いでいました。
このような背景の中で、ヨーロッパ文化に強い関心を示したのが25代・重豪(しげひで)です。重豪は暦学や天文学の研究のため明時館(天文館)を設立し、医療の発展のために医学院を設立するなど、様々な政策を実行しました。そして、曾祖父である重豪の考え方に幼少期から触れ、大きく影響を受けたのが、28代・斉彬(なりあきら)です。ヨーロッパへの興味に加えて、西欧列強がアジアで植民地化を進めていたことに危機感を覚え、斉彬は1850年代に製鉄、造船、紡績などの産業の近代化である集成館事業に取り組みました。鹿児島市郊外の仙巌園には大砲を製造する反射炉跡、現存最古の近代工場建造物の尚古集成館があります。いずれも2015年に登録された世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。このほか、斉彬は日本で初めてガス灯の実験に成功したほか、蒸気船建造した際に、日本国の船印として初めて日の丸の旗を使用するなど、その後の日本の近代化に関わる数々の功績があります。さらに、斉彬は幕末の時代に政治的にも活躍しました。朝廷と幕府が協力し、諸藩の意見を取り入れながら政治を行うという幕府改革路線を推進しました。その中で、娘の篤姫を当時の将軍・徳川家定に嫁がせ、幕府における薩摩藩の影響力を強めました。
しかしながら、斉彬の後を継いだ29代・忠義(ただよし)の時代には情勢が大きく変わりました。1863年に起きた薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにしたことや、幕府による長州藩への攻撃(第一次長州征伐)を経て、薩摩藩は倒幕派へと傾いていき、1866年には反徳川の急先鋒であった長州藩と薩長同盟を結びました。両藩は倒幕の中心となり、明治維新に大きく貢献することとなりました。

明治維新後の島津家

明治政府の発足後、忠義は県知事の前身である鹿児島知藩事に任命され、引き続き地域を治めていましたが、1871年の廃藩置県によって、島津家は統治者としての役割を終えました。その後は貴族となり、島津家の明治維新への功績も評価されたことから、貴族の最上位となる公爵の地位を与えられ、貴族院議員としても活躍しました。その後も、島津家の家系は現在まで続いています。現在の当主は32代目で、28代・斉彬を祀る照国神社の宮司であり、現在でも鹿児島の名士として知られています。

<テーマ3> 鹿児島市における島津家ゆかりの地

ここでは鹿児島市内に存在する島津家ゆかりのスポットについて紹介します。

仙巌園

仙巌園は江戸時代の万治年間(1658年〜1661年)に19代・光久によって島津家の別邸として建てられました。増築や庭園の整備などが行われ、桜島や錦江湾を借景として取り入れた庭園は見どころです。また、仙巌園には2015年に登録された世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である反射炉跡、尚古集成館があります。なお、尚古集成館は2024年までリニューアル工事を行っています。

照国神社

照国神社は28代・斉彬を祀る神社で、1863年に創建されました。鹿児島で最も大きい神社として知られているほか、毎年7月に開催される県内最大規模の夏祭りである六月灯(ろくがつどう)では、境内に色とりどりの灯籠が飾られ、大勢の人々でにぎわいます。境内にある照国文庫資料室には、斉彬の生涯と斉彬が取り組んだ富国強兵・殖産興業政策の紹介のほか、斉彬が強く影響を受けた25代・重豪に関する展示があります。境内に隣接する公園には斉彬像のほか、島津忠義や、その父である久光の銅像が設置されているので合わせて紹介しましょう。

鶴丸城跡

初代薩摩藩主・島津家久が関ヶ原の戦い後に徳川家に対抗する手段として17世紀初期に築城しました。島津氏の居城として使用されいましたが、1874年に焼失して以降、再建はされませんでした。現在、本丸跡には県立図書館や市立美術館など公共施設が整備されています。2020年に日本最大の城門である御楼門が復元され、写真撮影のスポットとしても人気が高いです。また、御楼門の裏手には斉彬の娘であり、徳川将軍の妻となった篤姫の像が置かれています。

旧島津氏玉里邸庭園

1835年に島津家27代・斉興(なりおき)によって築かれた庭園です。二つの庭園から構成されていて、旧邸宅からの観賞を意図して造られた「上御庭(うえおにわ)」と、池の周りを歩きながら庭園全体を観賞できる 「下御庭(したおにわ)」があります。第二次世界大戦の戦火を免れた茶室や灯篭など貴重な文化財も残されています。

おわりにー展示施設を利用する上での注意点ー

ここまで島津家の歴史と島津家にゆかりのある鹿児島の観光スポットについて紹介しました。照国神社がある熊本市の中心街には「鹿児島県歴史・美術センター 黎明館(れいめいかん)」や「鹿児島市維新ふるさと館」といった鹿児島の歴史に関わる展示施設が複数あります。それぞれで展示内容が重複している部分もあるので、どのスポットでどういった内容を旅行者に伝えるべきかを選定する必要があります。

ガイドナビでは鹿児島の観光名所である「桜島」に関する記事や、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産を紹介した記事も掲載していますので、合わせて確認してみてください。


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