1.はじめにー8県11市に点在する23の構成資産ー
この記事では、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」について紹介します。世界遺産に認定された理由とそれぞれの構成資産の特徴など、ガイドとして知っておくべき全体像を解説しています。
「明治日本の産業革命遺産」は正式な名称を、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」と言います。2015年に日本で19番目の世界遺産として登録されました。23の構成資産で成り立っており、多くの県に分散していることが大きな特徴で、九州を中心として8県11市に立地しています。県をまたいだ世界遺産は「古都京都の文化財」(京都県・滋賀県)や白神山地(青森県・秋田県)などもありますが、8県にも点在するものは非常に珍しいです。
九州を中心に分布している構成資産をエリアごとに紹介します。
- 長崎エリア(長崎県長崎市):8つ
- 萩エリア(山口県萩市):5つ
- 鹿児島エリア(鹿児島県鹿児島市):3つ
- 三池エリア(福岡県大牟田市、熊本県荒尾市、宇城市):2つ
- 八幡エリア(福岡県北九州市、中間市):2つ
- その他(静岡県伊豆の国市、岩手県釜石市、佐賀県佐賀市):3つ
明治日本の産業革命遺産を通じて、「殖産興業」というキーワードで知られる日本の産業発展を理解することができます。製鉄・製鋼、造船に関連する資産については、現在も稼働している構成資産も存在し、明治時代からの連続性が感じられます。対照的に石炭産業については、軍艦島(端島:はしま)に代表されるように隆盛を極めた一方で、現在では産出量の減少や産業構造の変化などを背景に役割を終えた資産が多くあります。
2.世界遺産に登録された理由
ここでは明治日本の産業革命遺産が世界遺産に登録された理由を紹介します。
該当する評価基準
世界遺産として評価された点は、非西洋諸国で初めて産業化に成功したことや、西洋技術と日本の伝統的な社会が融合された証であることなどが挙げられます。10個ある世界遺産登録の評価基準のうち、以下の2つが該当しています。
- 人類の歴史上の重要な段階を物語る技術的な集合体に関する顕著な見本であること
- 技術の発展に重要な影響を与えた、ある期間の価値観の交流を示すものであること
非西洋諸国で初めて産業化に成功
資産群が誕生した背景の一つには、先んじて産業発展を遂げた欧米列強の脅威がありました。日本は諸外国に対抗する防衛力を高めるために、それ以前は限定的だった西洋との貿易を再開して、技術を積極的に導入する必要がありました。
1850年代から1910年代にかけて、日本は製鉄・製鋼、造船、石炭などの産業基盤を整えました。諸外国と比較しても、わずか50年で産業化を達成したのは特筆すべき点です。これらは、日本の当時における科学技術の結晶であり、産業発展の過程を時系列に沿って証言しています。
西洋技術と日本の伝統的な社会が融合
江戸時代末期から明治時代にかけて日本では政治体制の変更があり、社会全体として従来の慣習を改める気運が高まったことも、西洋技術と既存の技術の交わりを円滑に進められる要因となりました。日本から見れば技術を取り入れることが重要な目標ではありましたが、その過程を俯瞰的に見れば、西洋と東洋の文化的交流であることも世界遺産登録に際して評価されたポイントです。日本の独自の産業発展はその後のアジア諸国の成長にも大きな影響を与えたことも重要な点です。
3.長崎エリア(長崎県長崎市)の構成資産
世界遺産を構成する具体的な資産について紹介します。萩、鹿児島、三池など複数の構成資産がある地域を中心に紹介しています。韮山(にらやま)反射炉をはじめ、ひとつのエリアに構成資産が単独で存在するものは「8.その他」で紹介しています。
長崎には23資産のうち8つの資産があります。明治の産業革命における時期としては、西洋の技術が本格的に導入され、産業基盤をしていった中期から後期にあたります。構成資産は長崎造船所と炭鉱に関するものに分かれます。
小菅修船場跡
1869年に完成した、日本で初めて蒸気機関を用いた洋式ドック(船の建造・修理などをする施設)で、長崎港の東側に位置しています。通称「コンニャクレンガ」と呼ばれる、薄くて長い煉瓦を使った曳揚げ小屋(船を陸上へとあげる装置を備えた小屋)は、日本最古の煉瓦造り建築です。幕末に薩摩藩の富国強兵に尽力した五代友厚やスコットランド出身の商人であるトーマス・グラバーらにより設立され、現在は三菱重工業 長崎造船所が管理しています。曳揚げ小屋内部は非公開ですが、ドックの様子を見学することは可能です。
三菱長崎造船所 第三船渠(ふなばり)
1905年に完成した全長200mを超える大型ドックで、当時は東洋で最大規模でした。背後にある崖を切り崩し、前面の海を埋め立ててつくられました。長崎造船所では明治時代に3つのドックが開設されましたが、そのうちの一つが現存し、現在も市街地の西側にある三菱重工業長崎造船所のドックとして稼働しています。一般には公開していませんが、長崎港から発着する遊覧船の船上や施設の対岸から施設の様子を見ることは可能です。
三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン
日本で初めて建設された大型電動クレーンです。カンチレバーとは、一方の端を固定し、他の端が固定されず自由な状態にある構造物を意味します。このクレーンは1909年に完成し、150トンの重さのものを吊上げることができ、プロペラをはじめとした大型機械を船舶へ載せるために使用されてきました。現在でも三菱長崎造船所内で現役で稼働しています。こちらも非公開のため見学はできませんが、対岸や船上からその大きさを体感できます。
三菱長崎造船所 旧木型場
1898年に竣工した2階建の煉瓦造りの木型場(きがたば)です。木型場とは、船の模型を木でつくる作業場所です。当時つくられた木型場としては日本国内で最大級です。長崎造船所の現存する建物の中でも最も古く、現在は長崎造船所の歴史を紹介する展示施設として一般公開されていますが、2023年2月時点では工事のため休館をしています。
三菱長崎造船所 占勝閣(せんしょうかく)
1904年に完成した木造の洋館です。当時の長崎造船所所長の邸宅として建設されたもので、造船所構内の丘の上に立地しています。予定されていた邸宅としての使用はされず、迎賓館となりました。現在でも三菱重工業長崎造船所内にあり、ほぼ創建当時の姿を残していて、進水式の祝賀会、賓客の接待で使用されています。一般には公開されていないため、見学はできません。
高島炭坑
蒸気船用の石炭需要の高まりを受けて、日本初の蒸気機関を用いた竪坑(たてこう:垂直に掘った石炭を採掘するための地下道)です。高島は離島であり、長崎市街地からフェリーで30分ほどでアクセス可能です。1868年に完成した後、1876年まで炭鉱で採掘がされました。蒸気機関の動力は石炭を運ぶ機械や排水ポンプなどにも使用され、高島炭坑で培われた技術は、端島炭坑や三池炭鉱をはじめとした他の地域の炭坑でも応用されました。炭坑跡は公開されていて、いつでも見学することが可能です。
端島(はしま)炭坑
長崎市にある離島、端島に存在した炭鉱です。通称「軍艦島」と呼ばれ、現在では無人島になっていますが、長崎港からクルーズ船による上陸ツアーが行われています。
端島炭鉱には高島炭坑の技術が取り入れられ、1870年に石炭の採掘が始まり、1890年に三菱の所有となりました。製鉄に適した良質な石炭が産出されたため、明治末期には後述する八幡製鉄所に大量に原料炭が送られました。
島の面積は当初は南北約320メートル、東西約120メートルの広さしかありませんでしたが、埋め立てにより3倍以上に拡張されました。島内には学校や住宅はもちろん、映画やパチンコ屋などの娯楽施設も充実していました。最盛期には5,000人以上が暮らし、その人口密度は東京の9倍という驚異的なものでした。石炭から石油へとエネルギー需要が変わったこともあり、1974年に炭鉱は閉山し、それに伴って住民たちも島を去りました。
旧グラバー住宅
小菅修船場や高島炭鉱の経営など、日本の近代化に貢献したスコットランド出身の実業家トーマス・グラバーの邸宅です。グラバー氏は1859年に開港後間もない長崎に、香港を拠点にする貿易会社の代理人として来日しました。生糸や茶の輸出をはじめ、幕末には武器商人としても活躍しました。明治維新後も日本で生活し、高島炭鉱の経営をはじめ日本の近代化に貢献しました。主家は1863年に建てられた日本最古の木造洋風建築です。イギリスのコロニアル様式と日本の伝統技術が融合したデザインが特徴です。
4.萩エリア(山口県萩市)の構成資産
山口県の北部に位置する萩には23資産のうち5つの資産があります。明治の産業革命における時期としては、西洋の技術を導入しようと取り組み始めた初期のものです。産業としては製鉄と造船に特徴があります。
萩反射炉
韮山反射炉と並び、日本に現存する2基の反射炉の1つです。萩市街地の北東部に残されています。反射炉とは鉄を溶かして大砲を造るための設備です。欧米列強に対抗するため、萩を治めた長州藩では防衛力強化のための大砲の製造が求められました。この反射炉は1856年に操業を始めましたが、比較的規模が小さいことから実験用に使われたと考えられています。屋外に展示されているので、無料でいつでも見学が可能です。
恵美須ヶ鼻造船所跡
西洋式軍艦を製造した造船所跡です。萩市街地の北東部にある港に残されています。萩は海の防衛において重要な拠点であったことから、幕府の要請を受けて、1856年にはロシア式、1860年にはオランダ式の船が造られました。いずれも伝統的な小型の木造船を改良したレベルでしたが、試行錯誤が行われたことが世界遺産登録の際に評価されている点です。造船所の施設は現存しませんが、当時と同じ規模のままで、石造の堤防が残されており、いつでも無料で見学することが可能です。
大板山たたら製鉄遺跡
江戸時代中期から後期にたたら製鉄を行った史跡です。萩市街地から20キロほど北東に移動した山間部にあります。たたら製鉄とは日本の伝統的な製鉄方法で、鉄を溶かす炉に空気を送り込む装置である「たたら」が特徴的なことからこの名前で呼ばれます。ここで精製された鉄は、恵美須ヶ鼻造船所で1856年に建造された軍艦の船釘に使われました。遺構からは炉やたたらの遺構が発掘されています。遺跡は時間を問わず無料で見学することが可能で、日中には展示施設である大板山たたら館が営業しています。
萩城下町
萩の中心街にある幕末から明治維新にかけて日本の近代化に貢献した長州藩の拠点です。1604年にこの地を治めた毛利家の居城である萩城が建造され、周辺には城下町が形成されました。伝統的建造物がよく保存されていることから、武家屋敷や商家が立ち並ぶ「萩城城下町」は国の史跡に指定され、重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は重要伝統的建造物群保存地区として選定されていて、木戸孝允旧宅をはじめ建物内を見学できる場所もあります。
松下村塾
江戸時代後期の思想家・教育者である吉田松陰が指導を行った私塾です。萩の中心街の東側に位置します。塾生の中から、伊藤博文、山縣有朋など、幕末から明治維新にかけて日本の産業発展に貢献する人材を輩出したことから、日本の近代化の思想的な原点となった遺産として評価されています。建物内の見学はできませんが、外観の見学はいつでも可能です。
5.鹿児島エリア(鹿児島県鹿児島市)の構成資産
鹿児島には23資産のうち3つの構成資産があります。明治の産業革命における時期としては、萩と同様に試行錯誤が行われた初期のもので、製鉄・製鋼、造船の分野における遺産が残されています。江戸時代後期に薩摩藩主であった島津斉彬(なりあきら)とその子孫が産業発展に取り組みました。特に旧集成館に関連する史跡は鹿児島を代表する名所である「仙巌園(せんがんえん)」の近くにあるため、観光としての見どころも豊富です。
旧集成館
集成館とは、薩摩藩主・島津斉彬が1851年から着手し、鹿児島市街地から数キロ離れた磯地区に建てられた、アジア初の西洋式工場群のことです。製鉄・造船・紡績など幅広い分野の産業に挑戦し、現存する日本最古の西洋式機械工場である旧集成館機械工場(尚古集成館)を中心に、オランダの書物を解読し、薩摩焼の技術を応用して大砲の製造を試みた反射炉跡、イギリス人技術者の宿舎として建てられた旧鹿児島紡績所技師館(異人館)が見どころとして存在します。旧集成館機械工場(尚古集成館)は現在の工事中で見学は不可ですが、ほかの資産は見学ができます(入場料が必要)。
寺山炭窯跡(てらやますみがまあと)
寺山炭窯跡は1858年に建設された木炭製造用の石積み窯跡です。鹿児島市北東部の山間部に位置します。集成館事業では大量の燃料が必要で、ここでつくられた大量の木炭は反射炉での溶鉄に使われたほか、ガラスや陶磁器の製造にも利用されました。3基あったうち1基が現存しています。2019年の大雨による災害からの復旧工事のため、2023年2月時点では史跡の見学が制限されています。
関吉の疎水溝
集成館事業において使用された水路跡で、鹿児島市街地から7キロほど北に移動したところに位置します。1852年に建設され、現在の鹿児島市下田町関吉にある稲荷川上流から取水し、集成館まで水が送られ、水車の動力源となりました。取水口や水路などが残されていて、現在では水路から引かれた水は田畑を潤す灌漑用水として使われています。一部の取水口は非公開ですが、水路の見学は無料で行うことができます。
6.三池エリア(福岡県大牟田市、熊本県荒尾市、宇城市)の構成資産
三池エリアでは、三池炭鉱・三池港と三角西港として、2つの構成資産が世界遺産に登録されています。いずれも石炭産業に関連するもので、坑口から港湾まで当時の施設が良好に保存されているという特徴があります。明治の産業革命における時期としては、産業基盤が構築された後期にあたります。
三池炭鉱・三池港
三池炭鉱及び三池港は、福岡県南部と熊本県北部の県境に位置します。三池炭鉱は江戸時代から石炭の採掘が行われてきましたが、長崎の高島炭鉱に次いで近代化が行われ、イギリスから最先端の機械が導入されて、大量の石炭を産出することが可能となりました。明治政府によって1873年に操業が開始され、その後三井財閥が所有しました。また、水位を一定に保つことのできる閘門(こうもん)を備えた三池港が1908年に築かれたことで、水位が下がる干潮時でも大型船での輸出が可能となり、それまで行っていた積荷の載せ替えが不要となり、物流の効率化が図られました。三池炭鉱及び三池港は日中に公開されているので見学が可能です。基本的には無料ですが、旧万田抗施設に入るには費用がかかります。
三角西港
明治政府による港湾整備の一環として建設された港で、1887年に開港しました。熊本県の西部に位置します。三池港が整備される前は、三池炭鉱の石炭は三角西港から石炭の輸出も行われました。鉄道の近くにある利便性の高い三角東港に取って代わられ、早期に衰退しました。そのため、石積みの埠頭、道路、排水路、石橋などが残っており、明治時代の港の中では唯一完全な状態で現存します。港の見学は無料でいつでも可能です。
7.八幡(福岡県北九州市、中間市)の構成資産
八幡エリアからは官営八幡製鐵所と遠賀川水源地ポンプ室が世界遺産に登録されています。いずれも製鉄の産業基盤が確立した時代の史跡です。現在でも稼働していることから内部の見学はできませんが、外観を楽しめる展望所が整備されています。
官営八幡製鐵所
1880年代~90年代にかけて、急増した鉄鋼需要を補うために建設された製鉄所です。福岡県の北部、北九州市の洞海湾(どうかいわん)に面しています。1901年に稼働が開始しましたが、操業技術の未熟さや資金難などもあり、1904年から本格稼働しました。1930年代にかけて設備が拡張され、周辺にも多くの工場が集積し、北九州工業地帯の主要拠点となり、現在に至ります。現在も日本製鉄の施設となっているため内部には立ち入れませんが、眺望スペースから工場の様子を見ることが可能です。
遠賀川水源地ポンプ室
鉄鋼生産に必要な工業用水を遠賀川(おんががわ)からくみ取り、八幡製鐵所に送水する施設です。福岡県の北部、中間市にあり、八幡製鉄所からは南西に10キロほど移動したところに位置します。1910年に建てられ、建築様式は明治期の典型的なイギリス式の煉瓦建造物です。現在でも稼働していて、操業開始時は蒸気ポンプを使用していましたが、現在では電気ポンプを使って水を供給しています。建物内には入れませんが、眺望スペースから外観を見学することが可能です。
8.その他(静岡県伊豆の国市、岩手県釜石市、佐賀県佐賀市)
各地域において単独で構成遺産となった3つの史跡をまとめて紹介します。いずれも幕末の時代に、幕府や各藩が西洋技術の獲得を模索した痕跡が感じれる構成遺産です。
韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)
1857年に江戸幕府によって建造された反射炉で、明治日本の産業革命遺産においては初期の構成遺産にあたります。反射炉は海上防衛を目的として、西洋技術の情報を研究しつつも、日本の伝統的な建築技術が用いられました。当初、反射炉の建設は、江戸の防衛戦略上重要な場所である、伊豆半島の南端、下田において建設が始まっていました。しかし、下田に来航したアメリカ兵が敷地内に侵入したため、伊豆半島の北部の内陸にある韮山へと場所が変更されました。日本に現存する当時の反射炉は、萩反射炉と、この韮山反射炉のみです。一般公開されていて、観覧料を支払えば見学ができます。
橋野鉄鉱山(岩手県釜石市)
日本で現存する最古の西洋式高炉跡があることが評価されています。橋野鉄鉱山は岩手県南東部の釜石市に存在した鉱山で、1858年に日本で初めて高炉(鉄鉱石を熱処理して、鉄を取り出すための設備)による製鉄を成功させました。その背景には、水戸藩の反射炉建設に携わった、盛岡藩士・大島高任(たかとう)が製鉄に関する知見を有していたことと、この地で良質な鉄鉱石が採掘されたことがあります。橋野鉄鉱石山は当時の国内最大級の鉄鉱山として繫栄し、1894年まで操業しました。鉄鉱石の採掘場、運搬路、高炉など、製鉄工程全体の遺構が残っているのが特徴ですが、高炉場跡のみが見学可能です。
三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市)
佐賀藩が1858年に設立した海軍の訓練場・造船所です。佐賀県の南東部、早津江川(はやつえがわ)沿いに位置し、日本に現存する最古のドライドックの遺構があります。ドライドックとは、水を抜くことができる設備を備えた船体の検査や修理の場所です。1865年には実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造しました。この場所は西洋船を運用するための教育・訓練機関も兼ねていました。屋外の史跡のため常時見学ができるほか、隣接する「佐野常民(つねたみ)と三重津海軍所跡の歴史館」でより詳しく三重津海軍所跡について学ぶことができます。
9.おわりにー案内する上でのポイントー
明治日本の産業革命遺産について紹介しました。構成資産の数が多く、分布する範囲も広いため、明治時代の産業発展という共通するストーリーを理解した上で、それぞれの資産の特徴を調べると理解しやすくなります。
旅程を検討する際、どの地域を訪れるか、旅行者の要望を聞いた上で判断する必要がありますが、産業遺産という性質上、現在でも稼働している施設は見学に制限があることも念頭に置いておきたいポイントです。
建造物の跡だけが残されている構成資産は、旅行者に観光スポットとしての魅力を伝えることが難しいことも注意したい点です。
加えて、日本の近代化という歴史的背景を扱った世界遺産のため、日本の発展という側面だけでなく、帝国主義や軍事化との関わりも見方によってはあります。特に長崎造船所や端島炭坑などの構成遺産は、第二次世界大戦中には多くの朝鮮の人たちが徴用されたという歴史があるため、韓国からの旅行者を案内する際には説明内容に配慮する必要があります。