目次
1.はじめにー琉球王国の歴史で知っておくべきポイントー
この記事では琉球王国が辿ってきた歴史について解説します。日本人にも外国人にも人気の高い旅行先となっている沖縄県は、かつて「琉球王国」というひとつの独立した国家でした。琉球王国は、日本の南に位置する海洋国家として、日本と中国を含む周辺諸国との交易で繫栄していました。
一般的な日本の歴史では、沖縄の歴史に特化することは少ないため、旅行者を案内する際は、沖縄独自の歴史の流れを学んでおく必要があります。特に重要なポイントとしては、現代の沖縄文化のルーツが生まれた第一尚氏王統の時代、江戸時代初期における琉球侵攻が挙げられます。
この記事で取り扱う沖縄の歴史は、古代の沖縄周辺地域の様子からはじまり、琉球王国の滅亡までを取り上げています。沖縄県成立から現在までの歴史については「【歴史】知っておきたい沖縄県の歴史 ~沖縄県成立から本土復帰まで~」で紹介しているので、そちらも合わせて参照ください。
南西諸島における琉球王国の範囲

地図データ ©2023 Google
琉球王国と沖縄の歴史について入る前に、南西諸島と沖縄諸島、先島諸島の位置関係について知っておきましょう。諸島の範囲に関する解釈は資料によって異なる場合もありますが、ここではあくまで一例として紹介します。
南西諸島とは九州の南方から台湾の北東にかけて約1,200キロメートルにわたって点在している島しょ群を意味します。鹿児島県に属している薩南諸島、沖縄本島とその周辺の島々である沖縄諸島、宮古島や石垣島とその周辺の先島諸島が含まれます。
また、沖縄諸島と先島諸島を合わせてた島々を「琉球諸島」と呼称し、ここに奄美群島を加えたものが、かつての琉球王国の領土に相当します。
2.琉球王国誕生まで(縄文時代~15世紀前半)
ここでは沖縄諸島の歴史を軸として、古代から15世紀の琉球王国成立までの歴史を紹介します。
狩猟採集の時代が長く続いた
まず把握したいのは、日本本土と違い稲作を中心とした農耕文化が定着しにくかった点です。この理由は解明されておらず、台風の到来をはじめ気候的に定住が難しかったことや、植物を道具化する農耕という行為を宗教的に受け入れられなかったなどの要因が考えられています。
日本本土では採集や狩猟を中心とした縄文時代から弥生時代へ移行する際、稲作を中心とした農耕を行い、米を貯蔵することで貧富の格差が発生しました。この格差は権力者を産み、それら権力者達をトップとした集団同士の争いの中で日本という国が形作られていくこととなりました。
一方で、農耕文化が定着しにくかった沖縄諸島では、富の集積による権力者の誕生が遅れました。沖縄諸島の人々は、日本が平安時代の中期に入る頃まで、漁労と採集を中心に、貝殻を日本本土へ輸出して生活していました。この時代を「沖縄貝塚時代」と呼びます。この時代の宮古島や石垣島等の先島諸島では、沖縄諸島と文化的交流はほぼ無かったと考えられており、文化的にもポリネシアの文化の影響が感じられることから、「先島先史時代」という別の文化・時代が設定されています。
按司の台頭と三山時代
やがて10世紀、日本が平安時代中期に差し掛かる頃になると、沖縄諸島にも農耕文化の定着が見られるようになってきます。農業の開始により、安定的に食糧の確保ができるようになり、人口が増えると、その人々をまとめる按司(アジ)と呼ばれる権力者が台頭していきます。
按司達は共同体を守り、勢力を拡大するために各地にグスク(城)を築いて、争いました。争いの中でそれぞれの共同体は束ねられていき、複数の按司を束ねる按司は「世の主(よのぬし)」と呼ばれました。
14世紀に入る頃には更に共同体の統一が進み、沖縄本島は北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の3つの勢力にまとまりました。この時代を「三山時代」と呼び、いずれも朝鮮や中国との外交関係を築いて、先進的な技術や文物を手に入れることで勢力を強めていきました。
そして、この三か国の鼎立(ていりつ)時代は100年ほど続きましたが、南山の按司の一人であった「尚巴志(しょうはし)が15世紀の初期から勢力を強めました。尚巴志は貿易による豊かな経済力を背景に武力も高めていき、1406年に中山を滅ぼすと、1416年に北山、1429年には南山の王国も滅ぼし、琉球王国最初の統一王朝を成立させました。
尚巴志を祖とする琉球王国は、後の時代の第二尚氏による琉球王国と区別するために「第一尚氏王統」と呼ばれます。王統とは王の血筋を指す言葉で、琉球王国はこれら二つの王統によって統治されました。いずれも尚という名を使っていますが、第一と第二の王統は別の一族です。尚巴志は琉球王国の都として首里を整備し、那覇港を整備しました。また、中国の明王朝をはじめ、日本や朝鮮などと交易を盛んに行いました。
3.琉球王国・第一尚氏王統時代(15世紀前半~後半)
ここでは現在の沖縄の文化のルーツとなる琉球王国の繁栄と、地方勢力台頭によって起きた護佐丸・阿麻和利の乱について紹介します。
第一尚氏王統
尚巴志から続く第一尚氏王統の琉球王国は、東アジアの中央にある立地を活かし、貿易によって興隆しました。この時期の琉球王国の繁栄と、周辺諸国との関係性が感じられるものとして、首里城正殿の鐘(「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」とも)」があります。この鐘には現代語に訳すと下記のような文言が記されています。
「琉球国は南の優れた地にある蓬莱(ほうらい:理想郷のような)の島である。韓国・中国・日本とも親密な関係にある。船で万国の架け橋となり、めずらしい宝は国内に充ち満ちている」
現代においても琉球・沖縄の象徴として度々引用されるこの文言の通り、琉球王国は国際交流にとても力を入れ、平和で豊かな理想郷を目指した国家でした。現代も琉球文化の象徴として扱われる文物の多くがこの頃に琉球に伝わり、発展していったものです。タイからは泡盛の原型が、中国からは三線の原型が交易によって伝えられるなど、中国や日本だけでなく、東南アジアにまで貿易の範囲が広がっていたことがわかります。
護佐丸・阿麻和利の乱
繁栄を見せた第一尚氏王統ですが、第五代の国王、金福王(きんぷくおう)が崩御した後には後継者争いが発生しました。その影響で第六代泰久王(たいきゅうおう)の権力基盤は不安定となり、地方では有力按司が力をつけていくこととなりました。
中でも尚巴志から6代の王に仕え、世界遺産にも指定されている中城城(なかぐすくじょう)や座喜味城(ざきみぐすく)を築城した「護佐丸(ごさまる)」と、勝連城(かつれんぐすく)を拠点として勝連半島を勢力下に置いた「阿麻和利(あまわり)」の勢力は大きなものでした。
1458年8月、阿麻和利は琉球国王を討って自身が王になり替わろうとしました。阿麻和利は、護佐丸が反逆を企てていると偽りの報告し、国王から護佐丸を攻める許しを得ました。阿麻和利から攻撃を受けた護佐丸は、反乱するつもりもなく、国王への忠義の意志を示すため自害しました。
そして、阿麻和利は国王の命を狙おうと計画しましたが、その動きを察知した国王によって逆に討伐されました。この出来事は、沖縄県の伝統芸能で、台詞と歌と踊りで展開される歌舞劇「組踊(くみおどり)」の題材にもなっています。
4.琉球王国・第二尚氏王統時代(15世紀後半~19世紀後半)
ここでは、第二尚氏王統時代について紹介します。第一尚氏王統を継いで琉球王国を治めた15世紀後半から、沖縄県が設置された琉球王国が滅亡した19世紀後半までを解説します。
第二尚氏王統の誕生
第7代国王の死後、重臣たちによってクーデターが発生し、家臣の中でも信頼の厚かった「金丸(かねまる)」が1469年に尚円王(しょう えんおう)として即位し、彼を祖とする第二尚氏王統が始まりました。約400年もの長きにわたり、19代の王たちが首里を拠点に統一支配を行った時代でもあります。
第二尚氏王統の中でも3代国王である「尚真王(しょうしんおう)」は琉球王国の黄金期を作り上げた王として知られています。尚真王の最大の功績として、各地の按司を首里に住まわせることで中央集権体制を整えたことがあげられます。按司には位階が与えられ、領地に応じた収入が与えられました。また、地方の行政区画を整備し、琉球王国全土に支配が及びやすくし、中継貿易によって蓄えた財源によって土木事業を行い、国土の整備にも力を入れました。王家の菩提寺である円覚寺や、国王が城を出て旅に出る際に道中の安全を祈願した園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)、歴代国王の墓となる玉稜(たまうどぅん)等も尚真王の時代に造営されました。
この頃の琉球王国は中国の明に服属し、密接な関係にありながらも、日本をはじめ各地との交易によって栄えていました。しかし、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加を求められた際に消極的であったことや、関ヶ原の戦いをはじめとした軍役による財政難に悩む薩摩藩・島津家が琉球貿易の独占と奄美大島の領有を望んだことから、琉球王国と日本の関係は徐々に悪化しました。
そして1609年、幕府の許可を得た島津家は3,000人の兵で琉球王国へ侵攻を行いました(琉球侵攻)。戦闘の経験が少ない上に武器をほとんど持たない琉球の軍勢は、わずか10日間で敗れ、首里城を明け渡し、琉球王国の降伏という形で和睦が結ばれました。琉球国王と重臣達は薩摩に連行され、「子々孫々まで島津氏に背かない」という内容の誓約書を書かされました。
ここから、琉球王国は明と日本(島津家)に両属することになり、国家として一時衰退しましたが、工夫を凝らして王国を立て直していきます。砂糖の生産を奨励し、土地の開墾などの改革が行われました。中国と日本の両方に従属する難しい状況の中で国家として存続しました。
琉球処分
江戸時代を通じて中国と日本の両国に支配されながらも国家として存続した琉球王国ですが、1871年に明治政府によって廃藩置県が行われると、琉球王国は鹿児島県の管轄下に置かれました。翌年には琉球藩が設置され、鹿児島県に従属していた琉球王国は明治政府の直轄地とされました。明治政府は当時の琉球国王である尚泰王に中国との朝貢関係の解消を求めましたが、琉球側は二か国に属しながら独立する姿勢を崩しませんでした。
1879年に新政府は軍を率い、武力を背景に首里城の明け渡しを尚泰王に命じます。これにより尚泰王は首里城から去り、琉球王国は滅亡し、沖縄県が設置されました。
5.おわりにー琉球王国の歴史に関する観光ー
琉球王国の歴史にまつわる観光スポットは県内各所に残されています。特に、琉球王国の王宮であった首里城が代表的なものです。首里城以外にも多くのグスクが残されており、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」にも指定されている座喜味城跡や今帰仁城(なきじんじょう)跡には大規模な石垣が残されていて、三山時代や琉球王国時代の雰囲気を感じることが出来ます。
また、エイサーや琉球舞踊などの琉球王国の時代から育まれた伝統芸能を体験できる「体験王国むら咲村」も整備されています。各スポットでの説明の際は、この記事の内容をぜひ活用してください。
ガイドナビでは、沖縄県の歴史についての紹介をはじめ、ガイドとして知っておきたい地域の特徴を取り上げた記事も掲載しています。