【歴史】知っておきたい沖縄県の歴史 ~沖縄県成立から本土復帰まで~

ナレッジ

1.はじめにー沖縄県の歴史で知っておくべきポイントー

沖縄県はかつて独立した国家でした。15世紀から19世紀にかけて「琉球王国」として、アジア諸国との交易で繫栄していました。その一方で、江戸時代からは中国と日本の両方に服属しながら、国家として存続するなど独自の歴史を歩んできました。

しかし、明治時代には琉球王国は滅亡し、日本の領土となりました。この記事では沖縄県となって以降の歴史を紹介します。日本への同化政策、経済的な困窮、さらには沖縄戦やアメリカ占領下の時代などを時系列に記載しています。人気の観光名所との関わりは薄いため、旅行者に説明する機会は少ないものの、沖縄戦以降から現在までのアメリカ合衆国との関係性は、特に理解しておきたい内容です。

沖縄県成立以前の琉球王国時代の歴史については「【歴史】独自の文化を育んできた琉球王国の歴史を学ぼう」で紹介しているので、そちらも合わせて参照ください。

2.琉球処分と沖縄戦(1879年~1945年)

琉球王国が滅亡し、沖縄県が設置されるまでの琉球処分の流れと沖縄戦について紹介します。

琉球処分

15世紀に琉球王国が誕生し、江戸時代には中国と日本の両国に支配されながらも国家として存続していました。しかし、1871年に明治政府によって廃藩置県が行われると、琉球王国は鹿児島県の管轄下に置かれました。翌年には琉球藩が設置され、鹿児島県に従属していた琉球王国は明治政府の直轄地とされました。明治政府は当時の琉球国王である尚泰王に中国との朝貢関係の解消を求めましたが、琉球側は二か国に属しながら独立する姿勢を崩しませんでした。
1879年に新政府は軍を率い、武力を背景に首里城の明け渡しを尚泰王に命じます。これにより尚泰王は首里城から去り、琉球王国は滅亡し、沖縄県が設置されました。日本への強引な併合には反対意見も強かったほか、日本と清の関係悪化を招き、後の日清戦争の原因のひとつにもなったと言われています。

これら紆余曲折を経て沖縄県となったかつての琉球王国ですが、日本本土と比べ法整備が遅れました。沖縄県が設置された1879年から1909年までは旧慣温存期といわれ、琉球王国時代の行政制度、土地制度が続いていました。日清戦争後からは沖縄でも皇民化教育が本格的に開始され、沖縄の日本への同化政策が進められました。そこから農業技術をはじめ経済の近代化が図られましたが、沖縄の人たちは県外への出稼ぎや海外移民に目を向けざるを得ない状況でした。時代が昭和に移ってもこうした状況は改善せず、1929年から始まった昭和恐慌では、農村部では極度の不況から口にするものが無く、毒性の高いソテツの実を加工して食べる人も現れ「ソテツ地獄」と呼ばれました。ますます海外移民や本土への出稼ぎが増えていきました。

沖縄戦

第二次世界大戦が始まると、沖縄は航空基地、日本本土防衛の前線基地となり、民家や農地の強制徴用が行われました。1944年にはサイパン島が陥落するなど徐々に戦況は悪化していき、1945年4月にはアメリカ軍が沖縄本島の中部に上陸し、沖縄戦が始まりました。
日本軍が10万人程度で防衛するのに対して、アメリカ軍は50万を超える圧倒的な戦力で攻撃しました。沖縄本島全土と周辺の島々が戦場となり、戦いは約3か月間続きました。両軍および民間人を合わせた戦没者は20万人とされていて、そのうち12万人の沖縄県民が亡くなりました。当時の沖縄県の人口が約49万人だったことから、県民の4人に1人が亡くなったことになります。

3.アメリカ統治と日本復帰(1945年~現在)

ここでは、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国との関わりを中心に紹介します。

アメリカ占領下の沖縄

日本の敗北によって第二次世界大戦が終結し、日本はアメリカ合衆国の占領下に置かれました。1951年にサンフランシスコ講和条約が調印されることで日本本土は再び独立しましたが、沖縄は依然として占領下にありました。日本への返還が遅れた理由には東西冷戦にあったと言われています。
当時アメリカは、ソビエト連邦、中国、北朝鮮といった東側諸国と対立していて、それらの国をけん制する必要がありました。そのような背景から沖縄はアメリカにとって戦略上重要な拠点でした。
そして、県内各地の土地は強制的に接収され、軍事基地の建設が始まりました。1956年には軍用地政策を認めるアメリカ議会の勧告(プライス勧告)が出されたことにより、沖縄全土で20万人以上が参加する激しい抗議運動「島ぐるみ闘争」が展開されました。
そのような状況下で、1959年には米軍ジェット機が小学校に墜落し、児童11名を含む17人が死亡した事件が発生しました。この時期に発生したアメリカ兵による事件や事故では責任の追及がされることは少なく、沖縄の大衆運動が激化しました。

日本復帰へ

1970年には米兵が酒気帯び運転で沖縄の人をはねたことをきっかけに大規模な暴動である「コザ暴動」が発生し、アメリカ軍の車両や施設が焼き討ちされました。これらを背景に沖縄の日本本土復帰の気運は高まっていき、1972年に沖縄は日本へと返還されることとなりました。
復帰後の沖縄では、本土との格差の是正を目指した沖縄振興策が行われています。その一つとして1975年に行われた沖縄国際海洋博覧会があります。これに伴い沖縄自動車道の整備や国道の拡幅といった、県内のインフラ整備が進められました。現在でも沖縄は県内に数多くの米軍施設が置かれ、日本国内の大消費地から離れていることで有力な企業が少なく、失業率も高い水準にあります。一方で、音楽、ファッション、食文化などではアメリカの影響を受けた独自の文化が築かれているといった側面もあります。

4.おわりにー沖縄県の歴史を紹介する上での注意点ー

ここまで沖縄県の歴史を紹介しました。沖縄の観光においては、万座毛(まんざもう)や真栄田岬(まえだみさき)に代表される美しい海の景観、泡盛や豚料理をはじめとした食文化を楽しむことなどが中心となります。
そのため、この記事で紹介したような県民の経済的な困窮、沖縄戦、アメリカへの抗議運動について説明する場面は少ないです。一方で、上記で紹介したファッションや音楽などの文化面でのアメリカからの影響や、アメリカ軍の基地から出た廃棄物を活用した工芸品である琉球ガラスについて説明する際には、記事の内容が関連する情報として役立ちます。

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