【浮世絵】浮世絵の基礎知識を知る ~歴史から代表的な作品まで~

ナレッジ

1. はじめにー浮世絵とはー


この記事では日本を代表する芸術である浮世絵の歴史や代表的な作品について紹介します。

浮世絵の定義

浮世絵は江戸時代に誕生し、大正時代まで制作された風俗画(人々の日常生活を描いた作品)のことです。作品の形態には紙に直接筆で絵を描く肉筆画と、彫刻や細工を施した版から絵の具を転写させる木版画があります。
肉筆画には菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の「見返り美人図」や懐月堂安度(かいげつどう あんど)の「立姿美人図」などの代表作があります。一方で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」をはじめ、有名な作品は木版画で制作されたものが多いです。木版画は大量生産が可能で、安価なことから多くの人が作品を手に入れられたという背景があります。

名前の由来

浮世絵の名前の由来には、江戸時代の時代背景が関わっています。江戸時代以前の戦国時代は戦乱の世で、戦いに疲弊した人々は世の中を「憂き世(辛く、苦しい世の中)」と呼んでいました。そして関ヶ原の戦いを経て、江戸幕府が成立したことで、260年続く太平の世に入ります。浮かれて楽しく暮らせる世の中になったことから、「憂き世」は漢字を変えた「浮世」と呼ばれるようになりました。そのような世相を描いたことが、浮世絵の名前の由来になっています。

2. 浮世絵の歴史


つぎに浮世絵の歴史を紹介します。形式や作風の変化に合わせた3つの時代区分で説明します。芸術の担い手が特権階級から庶民へと、作品の形態が1点物の肉筆画から大量生産の木版画へと変化したことがポイントとなります。

① 肉筆画から木版画へ:江戸時代初期~中期(1600年~1801年)
② 風景画の隆盛:江戸時代後期(1801年~1867年)
③ 浮世絵の衰退:明治時代以降(1867年~現在)

① 肉筆画から木版画へ :江戸時代初期~中期(1600年~1801年)

江戸時代以前、芸術文化を発展させたのは、貴族や武士といった特権階級でした。織田信長や豊臣秀吉の肖像画、彼らに絵師として仕えた狩野派の作品など、権威と結びついた作品が当時作られていました。

浮世絵が登場したことで、日本の歴史上初めて、芸術の担い手が庶民へと移りました。歌舞伎の役者を描いた役者絵や、美しい女性の特徴を抽象化して描いた美人画など、庶民にとって身近な題材を扱った作品が多く登場しました。人々の関心のあるものを広く紹介していたことから、当時における浮世絵は芸術作品というよりも、現在の雑誌や広告のようなメディアとしての役割がありました。

初期に描かれた浮世絵は肉筆画のみで、1点物で価格が高いため、一般の人たちが所有することは少なかったです。17世紀後半に活躍した画家・菱川師宣がそのような状況を変えるきっかけを作りました。木版画の作品に取り組み、芸術性を高めました。

木版画は大量生産が可能なため、価格を抑えることができ、浮世絵は大衆文化として広がりました。浮世絵制作で生計を立てる絵師や版元(作品を企画する人)が増え、売れ筋となる作品を生み出すため、作品の技術が一層発展しました。色の使い分けが可能になったほか、絵師、彫師などによる分業体制も確立し、専門性が高まりました。

また当時、日本は海外との貿易を制限していましたが、幕府は1720年にキリスト教に関係のないオランダの書物の輸入を認めました。ここから次第に遠近法など西洋美術の技法が取り入れられるようになりました。

② 風景画の隆盛:江戸時代後期(1801年~1867年)

美人画や役者絵に加えて、風景画という新しい分野ができたのがこの時代です。伊勢参りなど庶民の旅行ブームもあり、名所を題材にした絵が人気となりました。葛飾北斎や歌川広重などが代表的な絵師です。「富嶽三十六景」のように同じテーマを扱った作品を複数枚描く「揃物(そろいもの)」が数多く企画されました。

また、浮世絵は世界的に有名な画家にも影響を与えました。この時代に作られた作品は、後に輸出され、ジャポニスムと呼ばれる日本ブームの中で非常に人気となりました。

ジャポニスムとは、19世紀後半に起きた、欧米諸国で起きた日本の芸術に対する関心の高まりです。1862年のロンドン万博、1867年のパリ万博、1873年のウィーン万博などにおいて、日本の美術品・工芸品が出品されたことがきっかけでした。
当初、浮世絵は輸出された陶器などの工芸品を包む梱包材として使われましたが、西洋では浮世絵の珍しい表現技法がモネやゴッホなどの印象派の画家たちを魅了しました。例えば、ゴッホは生涯で500点以上の浮世絵を集め、浮世絵で用いられている色彩表現や構図などが彼の作風に現れています。

③ 浮世絵の衰退:明治時代以降(1867年~現在)

明治時代になると浮世絵の題材も変わりました。江戸時代とは異なる世相が反映された作品が描かれました。例えば、西洋化した都市として当時の横浜を描いた「開化絵」や、戊辰戦争の旧幕府軍と新政府軍の戦いを描いた作品などが登場しました。

しかし、人々の関心事を紹介し続けてきたメディアとしての役割は写真に奪われました。写真は浮世絵よりも景観の再現性が高く、短い時間で完成するため、庶民は浮世絵から次第に離れていきました。浮世絵を使った新聞が刊行されるなどの新しい取り組みもありましたが、大正時代の終わりまでには、商業としての浮世絵は完全に衰退しました。

3. 代表的な作品と作者

ここでは浮世絵の代表的な4つの作品について解説します。

「富嶽三十六景」/葛飾北斎


「富嶽三十六景」は1830年から1835年にかけて出版された葛飾北斎の代表作です。当初は36作品が出版されましたが、好評だったことから10作品が追加されて、最終的に全46作品となりました。作品が企画された背景には、富士山に集団で参拝する「富士講」と呼ばれる民間信仰が盛んだったことがあります。

赤く描かれた富士山が印象的な「凱風快晴(がいふうけいせい)」や、波の大胆な表現方法が目を引く「神奈川沖浪裏」など、世界的にも有名な作品も含まれています。

一連の作品の特徴としては観光名所でもなく、北斎自身が訪れた記録がない場所が描かれていることが挙げられます。富士山という実在するものを扱っているものの、遠近法を無視したり、実際の季節では考えられない光景を組み合わせたり、虚構と現実が入り交じっています。

19世紀後半の西洋画家に影響を与え、エッフェル塔三十六景という作品を描いたアーティストもいる他、有名作曲家のドビュッシーの「海」という作品は「神奈川沖浪裏」から着想を得たとも言われています。

「東海道五十三次」/歌川広重


「東海道五十三次」は1830年代に歌川広重によって制作されました。東海道にある53の宿場町に加え、出発地の日本橋と到着地の京都・三条大橋を含めた55の作品がある揃物です。
当時の東海道は、江戸と京都を結ぶ重要な街道で、大名行列や旅人など多くの人々が往来しました。約500kmの道のりがあり、徒歩で2週間程度の旅でした。道中にある宿場町を描いたことから東海道五十三次は、当時ガイドブックのような役割も果たしたそうです。

歌川広重は美人画や役者絵を描いていましたが、「東都名所」という風景画で人気となり、数多くの風景画を制作しました。その中でも東海道五十三次は一番のヒット作です。
作品の特徴としては、現実の景観を描くことを重視したことにあります。葛飾北斎が描いていた非現実的な風景に反感を抱いていたため、広重は景観をできるだけ忠実に描写しました。それは季節や天候を多彩に取り入れた作風に現れています。

晩年に手がけた「名所江戸百景」は、オランダの著名な画家・ゴッホが模写して、その色彩表現を学びました。

「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」/東洲斎写楽
(さんだいめおおたにおにじのえどべえ)


「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」は東洲斎写楽によって1794年に制作された作品です。
恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたずな)という歌舞伎作品における悪役の登場人物、江戸兵衛を描いたものです。大谷鬼次は役者の名前です。悪人特有の髪型、敵役に挑みかかるような仕草、憎たらしい表情が描かれていると言われています。
東洲斎写楽はわずか約10ヶ月の期間に約140点の作品を制作し、その後姿を消した謎の多い存在です。

「ポッピンを吹く女」/喜多川歌麿


「ポッピンを吹く女」は市松模様の着物が印象的な町娘を描いた喜多川歌麿の作品です。「ポッピン」とは当時流行していたガラス製のおもちゃのことです。1790年頃に発表された「婦女人相十品」シリーズの1つで、いずれの作品も女性の上半身をクローズアップした構図が特徴です。喜多川歌麿は幕府による風紀取り締まりに屈することなく、新しい表現方法を模索しながら、数多くの美人画を手がけました。

4. おわりにー関連する記事の紹介ー

浮世絵を鑑賞したい場合には、作品が収蔵されている美術館を訪れましょう。東京のすみだ北斎美術館、大阪の上方浮世絵館、静岡の静岡市東海道広重美術館など浮世絵に特化した美術館・博物館が各地にあります。

また、浮世絵の制作体験ができる美術館や工房もあります。体験内容は施設によって異なりますが、目安としては所要時間は30分〜1時間程度、費用は500円〜2,000円程度と、手軽に楽しめるので、ツアーの行程にも比較的組み込みやすいです。

ガイドナビでは、浮世絵の制作方法に関する記事も掲載予定ですので、ぜひ参考にしてください。

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